帰国事業 1972年
帰国事業 1972年 掲示板スレッド
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二〇〇九年は、在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業が実現して五〇年を迎える年であった。
帰国事業は、朝鮮総連が一九六〇年代に展開した「地上の楽園」北朝鮮への帰還運動(北送運動)であった。この運動で一九五九年十二月から一九八四年までに、約一〇万人の在日朝鮮人が永住帰国した。六〇万在日朝鮮人の一七パーセント、六人に一人が北朝鮮に渡った。在日朝鮮人はほとんど南朝鮮出身であった。しかし、帰国事業で身内が北朝鮮に永住帰国したため、在日朝鮮人社会と北朝鮮のあいだに切っても切れない血縁的紐帯が生じた。在日朝鮮人が永住の地に北朝鮮を選択したのは、社会主義へのイデオロギー的憧憬、日本における「貧困」からの脱出、メディアが煽る千里馬朝鮮への礼賛などが作用した。
しかし、数年後、帰国朝鮮人からイソップの言葉で綴った便りが届きはじめ、隠蔽されていた「地上の楽園」北朝鮮の矛盾と惨状を人々は認識しはじめた。帰国朝鮮人は「帰胞(キボ)」として、最下層の社会成分である「複雑階層」にランク分けされ、満足な衣食住も保障されない劣悪な生活を営んでいることを知った。「暮らせない、援助を頼む」という悲鳴が聞こえてきた。朝鮮総連も北朝鮮の帰国者の実情を知り、在日朝鮮人の怨恨の視線を感じはじめていた。「しまった!帰国者を人質にとられた!」と臍をかんだ。しかし、気がつくのが遅すぎた。総連組織そのものが、北朝鮮が張った蜘蛛の巣に絡めとられていた。総連中央は朝鮮人を修羅の場に送り込んだ罪を隠蔽し、帰国事業への一切の批判を封印した。
北朝鮮への帰国事業は、私の人生設計にも大きな影響を及ぼした。
帰国船が新潟を出た年、一九五九年に、私は愛知大学講師の職を辞して、北朝鮮への帰国を決めた。そして日本人妻の帰国をも認めるという北の言葉を信じて、妻を娶った。初めて朝鮮総連と繋がりが生じ、中央学院を経て朝鮮大学校に配置された。